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8月6日の広島原爆の日によせて、祖母の被爆体験記を残しておきます

いつもと変わって真面目な話を書こうと思います。

刺激の強い内容となっているので、苦手な方は読まないほうがいいかもしれません。

 

地元広島では8月6日は「ハチロク」と呼ばれ、祈りを捧げる日。

原爆投下時刻の8時15分にはサイレンが鳴り、黙とうをするのが普通だった。

この日は公共施設はお休み、よってゴミ回収や公立図書館もお休み。

原爆ドームの目の前にある旧広島市民球場では試合は行われず、カードの関係上どうしても地元で試合をせざるをえない場合は福山とかで試合をやっていた記憶がある。

夏休み中だけどなんだかこの日は遊びに行こう!という空気になれず、家でゆっくり過ごすのが当たり前だった。

大学からは広島を出たのだけど、県外の人たちのハチロクに対する意識の差に最初は驚いたものだ。

 

中学の夏休みの宿題で、被爆体験を聞いてレポートを書け、といったものがあった。

できれば身内に聞くこと、身内に被爆者がいなければイベントに参加して聞いてこいというものだった。

母親に「ばーちゃんって被爆しとるよね?話聞きに行きたいんじゃけど」と言ったら、母は「そうじゃけど・・、話してくれるかね。うちも聞いたことがない」とのこと。

イベント行くの面倒だし、と思って軽い気持ちで祖母に話を聞きに行った。

祖母はしばらく考えこんでいた。

そして「本当は話しとうない。もうあのことは思い出したくもない。じゃけど、こうやって孫の代にちゃんと伝えんといけんのんかもしれんね。」とポツリポツリ話はじめた。

泣きながら。ーー

 

 

祖母は当時、広島市中心部近くある比治山のふもとに住んでいた。

当時子供をみごもっていて(母親の兄にあたる)、8/6の朝は体調がすぐれなかった。

建物疎開(空襲時に延焼を防ぐために建物を間引く作業)のために市内中心部に行く必要があったが、どうも身体がいうことをきかない。

そのことを近所の人に話すと「うちが代わりに行ってくるけん、今日は家でゆっくりしんさい」と当番を変わってくれた。

その人を見送ってから、家事を済ませて家の中で休んでいると突然衝撃が走った。

祖母の家は比治山が防波堤となり、爆風など直接の被害はなかった。

しかしここからが生き地獄だったと言う。

 

代わりに建物疎開に行ってくれた近所の人は、おそらく即死。

爆心地に近いために、骨どころか身につけていたもの何ひとつ見つからなったらしい。

その家族には、自分の身代わりで亡くなってしまったことを最後まで言えなかったという。

 

なんとか生き延びて逃げてきた人が、自分の畑の果物を食べながら力尽きていく。

その姿や光景はこの世のものとは思えなかったと。

そのままにしておくわけには行かないので、リヤカーにのせて運んだという。

川には水を求めて飛び込んだ人が大量にいて、河原に集めてまとめて焼いた時の匂いはすさまじかったそうだ。

 

祖母の弟は背中にガラス片が大量に突き刺さった状態で帰宅してきたとのこと。

治療しようにも何もできず、虫がわかないように取り除くので精いっぱいだったと。

そういえば私が子供の頃に、伯父が「耳たぶからガラス出てきたわー」と言っていたな。

 

そして倒れている人の近くを歩いていたら、突然足をつかまれて助けてくれと言われたとのこと。

驚いてとっさに振り払おうとしたら、その人の手がとれてしまったそうだ。

怖すぎてとれた手を捨てて走って逃げることしかできなかったと。

 

 

話の1つ1つがおそろしすぎて、それ以降自分が原爆にあう夢を見てうなされることもあった。

軽い気持ちで聞きに行ったことを後悔したし、思い出したくもないことを無理やり話させる宿題なんて出すなよと学校に憤りを覚えた。

 

でも今は聞いておくべき話だったと思うし、私はこの話を後世に伝えないといけないと思う。

こうやってネットに残しておくことで、何十年後も誰かの目に触れるかもしれない。

「原爆手帳持っとるけん、病院もタダじゃし、タクシー券ももらえて便利よ」と祖母は明るく振舞っていた。

今の時代ならPTSDやら何やらで心の治療を受けることもできるけど、当時は当然そんな考え方なんてなかったわけで、大変なんて言葉じゃ言い表せないほどの苦労をしてきたと思う。

自分が同じ境遇ならここまで生き延びる自信はまったくない、本当に強い人だったと思う。

最後まで人に迷惑をかけることなく、祖母は数年前に亡くなった。

祖母の名前も刻まれた原爆死没者名簿の眠る慰霊碑には、以下の言葉が刻まれている。

 

「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」